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自殺用品店の息子

ライブ初日本番と歯医者のアポの間に開いた数時間の空白にすっぽり嵌る映画を探して、『スーサイド・ショップ』にいきつく。
あのパトリス・ルコントが手がけたアニメ映画。ミュージカル映画でもある。
ルコントといえば『髪結いの亭主』と『仕立て屋の恋』。
『スーサイド・ショップ』なんてタイトルにせずに『自殺用品店の息子』でいいじゃないか。
(いつも映画の邦題に文句を言う人になってきた…笑。でも『クロワッサンで朝食を』だの『眠れぬ夜の仕事図鑑』はないだろう←会報参照。)
原題は『Le Magasin des Suicides』。原作の小説タイトルでもある。
私は美術作品に関してオリジナル至上主義ではない。どちらかといえば「小説が優れていることを知るために作家の肉筆原稿を読む必要があるかね」的なマグリット主義である。しかし、映画のオリジナルタイトルにこだわる傾向があるようだ。
「あるようだ」という他人事的な感想は大事である。
芸術作品を見る、ということは、自分がどんな人間であるのか、自分も知らない自分を見ることに他ならないからだ。
♪あの日あの時あの場所で〜、出会った作品がどんなふうに印象に残ったか、それはそのときの自分の「写真」なのである。
この映画の観賞後、地下の映画館から地上に出て、秋晴れの空を見た。
そのときにリフレインしたのは
♪運命は魅力的で、予期できない”回り道”
という映画のなかの1フレーズである。それが現在の私の姿を表象する何か、なのだろう。
自殺用品を専門に扱う店…。一部のゴスロリ系やメンヘラ(失礼)がいかにも好みそうな小道具ね、と思えば、さすがルコント、あなどれない映画だった。「人生に失敗? 私たちなら失敗なく死に至らしめて差し上げます。」というショッパーの文言、「これで死ねなければ全額返金」という真摯(?)さ、必然的に一期一会で二度とは来ない客への明るい接客。きわめてドライに描かれる自殺。他者を死なせ続けるために自らは生き続けるしかない人たち。奇妙な両義性がこの映画には満ちている。
「過去はいつも新しく、未来は不思議に懐かしい」とは生田萬の名言だがそんな風情の大都市が舞台。自殺者はひっきりなしの街でひときわ繁盛するのが、トゥヴァシュ家が切り盛りする「十代続く」老舗自殺用品専門店。ロープ、剃刀、毒薬、毒キノコ、ピストルに日本刀に至るまで、自殺希望者の欲望を必ず叶えるためのツールが揃っている。金のない浮浪者にはビニール袋とセロテープを無償提供するサービスの良さ。日本刀を振り回す店主の名はミシマ。母はルクレス(ルクレツィア・ボルジア!)、陰気だが実は色っぽく肉感的な長女の名はマリリン、悲観的な長男はヴァンサン(フィンセントのフランス語読みである。フィンセント・ファン・ゴッホのヴァンサンだ。)。エスプリというよりブラックユーモアである。フランス語が少しでも分かるとより楽しいだろう。家業にふさわしく、笑うことなど決してない一家に、赤さんが生まれる。その赤さんが突然変異なのか何なのか、異様に陽気でポジティブだったことから巻き起こる波乱の物語。
ルコントがミュージカル?しかもアニメ?…と思ったが、これが理にかなった手法であることはすぐに分かる。アニメはその名のとおり、自発的なアニマであり、けっして実写の代用品ではない。アニメでなければ幼児に父親が煙草を吸わせて間接的に殺そうと企むシーンも不可能だろう。(最近どこかの国ではアニメの中で大人が煙草を吸うシーンにさえもクレームがくるらしいが。苦笑)

そう、生真面目に家業を守る父が殺意をいだくほどその末息子は明るかった。いつも朗らかに笑っていて、父に殴られても疎まれてもその輝きは曇らない。自殺を邪魔し、客を笑わせ、そして陰鬱な姉にじつは「美人」であることを気づかせ、家族を変えてゆく。
もちろん、「正しい」映画ではない。人々に死をもたらす自殺幇助の家業なんて、そもそも人道的に許されるはずもない。しかし、理念的に正しいことと人間の現実の間にはこんなにも隔たりがある。そしてミシマもルクレスも、まったく割り切っているわけでもない。ミシマは精神科医のカウンセリングを受けているし、ルクレスはときどきほろりと客に同情して涙を流す。
ネタバレすると、「自殺用品専門店」は底抜けに明るい末息子アランの計画的な悪さによって壊滅状態になり、やがてマリリンとその恋人によって「クレープ屋」に変わる。ミシマは日本刀でクレープを自由自在に造形して大人気店になるのだが、それでもミシマは自殺志願者には即死できる毒入りクレープをこっそり手渡す。疑問に感じる受け手は多々いるだろう。でもそこが私には深かった。
ラストシーン、アランは父を笑わせるためにビルの屋上から身を投げる。アポトーシスという言葉が唐突に私のなかによぎった。細胞自殺死。母体を生かすために自らは犠牲になって自発的に死ぬ細胞のことを。
ところが、アニメである。アランは死ななかったのだ。ビルの下ではその友人たちがクッション的なものを持って待ち受けており、トランポリンのようにアランは空中を行き来し、父を笑わせる。原作ではここで死ぬのだろうきっと、と反射的に思う(どうやらそのとおりのようだ)。しかし『フランケンウィニー』の結末でフラン犬(!)のスパーキーが生き返ったように(あれも死ぬほうがまっとうな結末であることは確信する。しかし、鑑賞者の私の心情は、整合性とか教訓とか物語とかどーでもいい、なんだっていい、矛盾でもいいから、スパーキーに死んで欲しくなかった。それはもう祈るような気分だった。そしてティム・バートンはその通りにスパーキーを生き返らせてくれたのである。嬉しかった。端的に幸せだった。)、ここでも誰もがアランの死を望まないことは事実である。
そう、正しくはない。整合性に欠ける。でも、それが人を救うこともある。それを教える映画が『自殺用品店』という皮肉。
真実でも正当でもない「絵空事」ゆえの強さ。私が「芸術」を愛するのはそこである。
この数日前、私は東京ディズニーランドを訪れ、アトラクションのホーンテッドマンションに乗っている。イメージ的に近いかもしれない。また、ティム・バートンの雰囲気もあるような(ルコント自身、ティム・バートンからの影響を少なからず認めている)。とにかく、荒唐無稽にもかかわらずどこか繋がっていて、緻密でドライでクールにもかかわらベタで人間的な体温とユーモアがそこにはあり、救いのあるダークなのである。
ルコントのこの映画の「役者」選びのポリシーは「一般的に知られていないけれど、私が才能を評価している役者」だという。「有名な役者を起用するのはイメージを崩しかねない」。なぜなら「聴覚と視覚が同時に進行しなくなり、画像を見る注意力がなくなってしまう」から、と。声優は地声が分かるようではだめだ、ということのようだが、個人的に深く賛同する。私は、芸能人声優を使った最近のアニメにいささか興ざめしているからだ。
自殺は絶対にいけない!とは違う形で、
たしかに、観賞後に「風立ちぬ、いざ生きめやも」と呟かせる映画である。

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