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スクエア54のこれから

スクエア54のライブは、小さな貸し会議室でお客さんが3人もいれば成立してしまうような小さなもの。
そのときどきで、お客さんはたくさんいらしたり数人だったり(私にはその波はまったく読めない。笑)。
自ら大々的に宣伝することも、チケット代を必要経費以上に徴収することも、【超拡散希望】ツイートも、私にはやっぱりできない。(リツィートしてくださったり、広報してくださったり、お友達を誘ってくださる方、ほんとうにありがたいです。)
15年以上やってきても、ライブをすることはどうしても慣れないし、そしてひどく恥ずかしい。
そして、大学の大教室で数百人を前にしている講義以上に緊張する。汗だくになる。
それをプレッシャーと呼ぶと潰されてしまいそうな気がするので、「緊張感」。
スクエア54に来てくださるお客さんはすべて、単位だの時間割の都合ではなく、自らの意志で自らの時間を割いて足を運んでくださるオトナの方々。それぞれに何かしらのプロに近い方々。
大学という大組織に守られたホールライブではなく、スクエア54はいわば私にはストリートで武者修行みたいなもの。
4年前に某大学をリストラされたとき強く思ったのは、とにかくライブができる場所が欲しい、ということだった。
じゃあ”路上に出て歌う”覚悟があるのか、と自問したとき、怠惰で臆病な私が意外にも「YES!」と自答したのだ。
自分が一番驚いた。
生きていくために他の仕事を探すことより、先見えなくてリスク大きくてもライブをする方を選ぶのか、と。
そんなにライブ好きなの?と。(答えはもちろんNOだ。好きだなんて言うには私には苦手すぎて過酷すぎて。)
「どんなことがあっても、何を言われても、どうトラブっても、絶対に最低3年は維持する」こと。
「他人任せにせず、自分の手を動かし、自分の目で確認し、自分の頭で判断し、自分個人で全責任を取る」こと。
その他いくつかを自分のなかで条件にして、数ヶ月の準備期間ののち、2010年の1月10日に正式に立ち上げた。
当初パソコンもネットも使わないことを考えていたけれど、結局HPを立ち上げ、やがてツイッターだのをはじめた。
会報の形も変えたし、メールマガジンも出した。
あれから3年、決してうまくいったとも、いっているとも、これからいくとも思えない。
迷って、泣いて、書いて、話して、読んで、考えて…、走り続けた3年だった。
でも、どうしてみても、それが悪いものだったとは思えないのだ。
はじめたとき、3年後つまり2013年1月10日の私がどんなものか、予測さえつかなかった。
怯えながら一歩踏み出したあのときの私に、今「悪くはないよ、ありがとう」と言える。
一昨日、2013年1月10日、朝から激しいアクシデントに見舞われながらも私は某大学で普通に講義をしていた。
8日のガーゴイル系の新曲ライブのリハに正月から追われていたし、他の大学のファイナル講義も重なっていた。
正直に告白するなら、スクエア54の3周年の記念日であることさえ完全に忘れていた。
何周年とかいう記念の呪縛が、19世紀末以降に顕著なものであることを昨日建築の文献を見ていて知る。
世紀の数だけ世紀末はあるのになぜ19世紀末を指すのか。
それは文化や思想や芸術や政治や宗教などがもはや、数値の区切りの訴求力に勝てなくなったからだと。
たしかに2000年という数値に人は踊ったし、誕生日を執拗に祝うし、創立だの生誕だのデビュー◯周年はもはやそれ自体で商品化されイベント化されていく。
・・・スクエア54は3年という区切りを最後に今後、数値以外のアイデンティティを追求します。
スクエア54は続けます。
3人以上お客さんがいればライブはやりますし(30人以上とかになるとそれはそれでスクエアっぽくないような…笑)、少なくとも数百人の登録者がいてくださる限り無料メルマガも書きますし、もしも今期継続してくださる方がいくばくかでもいらっしゃれば、あの会報を書いて刷って編んで折って綴じて、おひとりおひとりに郵送します。
私の人生は「取るものも取り敢えず」の連続で構築されています。
「とりあえず、つづける」。それが実際のところかもしれません。
それは、続けていけない理由が結局今の私に見当たらない、ということでもあります。
スクエア54は取るに足らないような個人のアナログの活動ですが、お客さんはじめたくさんの方々に支えられてきました。
だから「取るものも取り敢えず」、まだやっていけます。
それでも、なにかテイクしていただけるものをご用意できれば…と考えています。
明日は東京で、普通に、スクエア54のライブをします。それから、また、大阪で、それから…。
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…明日のライブのプログラムができました。

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