メニュー 閉じる

映画『El hombre de al lado』備忘録

直訳は『隣の男』 邦題は『ル・コルビュジエの家』。
映画は強すぎて苦手だ。美術や書物のように自分の速度で鑑賞できないから。ライブやコンサートやダンスや舞台ならとにかくステージも生身の人間なのでその速度や加工はしれてる。しかし映画やテレビやアニメや映像は、急に5年後になったり100年前になったり、CG加工されたり…、アナログ人間にはキツい。
そもそも映画館とカラオケボックスは私がもっとも嫌う場所かもしれない。両方イヤな記憶がトラウマとなっている。
でも、こうしてたまに映画を見る。多くの場合はひとりだ。作品とサシでじっくり向き合いたいから。
『ル・コルビュジエの家』はアルゼンチン映画である。私と同世代の監督ふたりによる作品。はじめて見る監督である。基本的に原題を崩してほしくないが、この場合、邦題タイトルがなければスルーしただろうと思えば、この訳はありがたい。
舞台がコルジュジエの建築、ブエノスアイレスの州都ラプラタにあるクルチェット邸。ドキュメンタリー映画かと思いきや、主人公の住む家がクルチェット邸であり、その設計ゆえに起こる隣人トラブルのフィクション。
面白かった。
建築やデザイン好きにはたまらない要素に満ちている。それが押し付けがましくなく、さりげなくわかるひとにだけ開かれる心地よさ。6人しか客のいない映画館のシートに沈み込んで、私は微笑み、何度かは笑い声を必死で噛み殺す。いい時間だ。
ファサードのモデュロールだけでなく、住宅空間としてのコルビュジエ建築内部を実際に体感できる興奮。さらには、椅子のデザイン、室内のインテリア、前衛音楽への揶揄…。それだけならありがちの”高尚”なインテリ向けアート映画だが、「洗練されすぎている映画が苦手」と語る監督はそれを許さない。ステイタスへの皮肉や、家族内の不和、社会的なヒエラルキー、下世話なエロティシズム、隣人との人間模様など、極めて大衆的かつ俗物なドラマとしても秀逸にできている。
会話はもちろんスペイン語で進むが、イタリア語とよく似ていることを実感。
主人公レオナルドは椅子のデザインで一躍有名になり、妻子とコルビュジェの家に住み、メイドも雇っている。絵に描いたような成功者だ(電話でのやりとりに綺麗なドイツ語を使っていることから、外国語も堪能であり国際的に活躍していることが伺える)。反面、妻にはどやされ、娘には完全に無視され、法律をふりかざし、何もかも人のせいにし、裏から手を回したり、金にモノ言わせたり、女子学生に手を出そうとするようなスノッブな人間。
それに対して一人暮らしの隣人ビクトルは地元の下層階級の人間。腕にはタトゥ、粗野で頑固で破天荒、そして強面だが、人間的に極めて魅力的な人物。社会的なヒエラルキーと人間的な質は必ずしも比例しないようだ。
いくつか細かいシーンと台詞があとでじわじわくる。
ミース・ファン・デル・ローエの椅子デザインをパクってきたデザイン専攻学生(見た瞬間にモロにバルセロナチェアが思い浮かんだ。主人公がそれを指摘したのでにんまりした。)。「ローエから長い年月が経ってる。それをパクって、それより劣ったものしかできないのかね!」というようなことを主人公が言うシーン。辛辣でイヤな先生だが、今のデザイン環境において含蓄の深い指摘だ。
完全にシカトで常に耳にウォークマンのイヤホン、心を閉ざしているレオナルドの娘ローラ。唯一彼女が無邪気な笑みを見せたのは、窓越しに見た隣人ビクトルの指先の寸劇。汚い段ボール箱の中のステージ、ソファがバナナ、ラグはハム、ミカンにクラッカーのセット(笑)…、本当に矮小で猥雑でキュートだ。好みだ。私のやりたいライブはこっち系統。
ビクトルの叔父は知的障害がある。そのことに気づかず、叔父に対して一方的に暴言を吐いたレオナルドにビクトルは謝罪を求めにくる。自分は何を言われてもいいが叔父に暴言を吐く奴は絶対に許さない、と。そのとき、ビクトルが知的障害を「別の能力を持った人間」と形容するのだ。障害でなく、「別の能力」…。
プラセンテーロ・チェア(倉俣史朗のミス・ブランチよりこれが欲しい。見てて美しく幸せな椅子と欲しい椅子は違うのだ)、ゲバラの絵、ドット状の鏡越しの会話、ビクトル作のライフルと銃弾の真っ赤な女性器オブジェ、ゴミ箱に捨てられた花束、イノシシ肉のマリネのレシピ(なぜビクトルが銃を所持しているかがイノシシ狩りの伏線によって解決している)、エンドロールのイラストに至るまで、実にシュールでシャレている。
わずか100分ほどの映画、その中盤ですでに私はビクトルに恋をする。誰だってそうだろう。
だからこそあのエンドは、ない!
絶対に、あってはならないのだ!
映画を見てそのなかのフィクションのストーリーの結末に、こんなに本気で無邪気に憤る帰り道があるだろうか。
私はコルビュジエの家には住めない。住みたくない。この気持ちには既視感があった。かつてウィーンでヴィトゲンシュタイン邸を訪ねて内部を見せてもらったときだ。私はその家が大好きだし、本当に素敵だと思ったし、惜しみなく畏敬を払うけど、どうしてみても自分はそこに住みたいとは思えなかった。
“ル・コルビュジエの家”には、ひっきりなしに見物人が訪れる。ステイタスは満たされるかもしれないが、歴史的価値ある建築だけに自分で勝手にいじることもできない。この映画で、私が住みたいのはもちろんビクトルの家のほう。汚なそうで狭そうで暗い、窓もない、作るために勝手に壁を自分でぶちぬけるような、そんな処(笑)。
近代建築の巨匠コルジュジエの設計した家、クルチェット邸。もともとのオーナーであるクルチェット氏は外科医で、この邸宅は診療所と居住棟を兼ねている。現在の所有者はクルチェット氏の遺族だそうだが、世界遺産レベルの建築によく撮影許可が下りたなあと誰もが思うところだろう。ところが、意外にも監督は「許可を取るのは簡単だった」と述懐している。
 「他の国ではどうか分からないけど、アルゼンチンだからね」(公式HPより)
素敵な国じゃないか。素敵な映画じゃないか。

関連記事