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コスプレイヤーは二度死ぬ

「コスプレとは、自分を削っていくことによって自己表現に代える高度な身体技法である」という趣旨の原稿(『コスプレイヤーの憂鬱と愉楽』京都造形芸術大学紀要GENESIS 第8号2004年)を出してから8年も経った。私にしては珍しく、一日で一気に書き上げて一切の加筆訂正をしなかった文章である。最初から完成していた、ゆえにコスプレイヤーとしての自分はもう終わって興味のないものになったんだな、と自分でも思った。
書いた時点ですでに「引退」はしていたし、まあ身体技法実地報告のようなものだ。
コスプレをしてきた自分と、それに逆行するようにタトゥを入れた自分のマインドには自分で興味があった。
二次元キャラにも三次元芸能人にでも、自分以外のナニモノにでもなれる透明な身体としてのコスプレイヤーの身体。
対して、自分以外のものを受肉したがゆえに、もはや自分以外のナニモノにもなれないのがタトゥをほどこした肉体。
重くて、軽い。
私にはどちらも重くて、その重さと同じくらいのヘビーさで、軽いとも思う。
自分の好みとはまったく無関係の布を選び、自分のサイズとは全く違う寸法に裁断し、自分の身体に沿わない他者のラインにむかって縫製をする。自分の日常生活でつくはずのない筋肉を無理矢理のトレーニングとプロテインでつけて、自分の肉体のプロポーションを補正し、捏造し、メイクし、髪色も目の色も変え、他者に近づける一連の作業。それが何のディシプリンなのかよく分からないまま夢中になった。重い自分を脱ぐように、あるいは”取るに足らない自分にモビルスーツ”を履かせるように。
モデルとしての対象に似れば似るほど、どうしようもない自分は立ちはだかる。
“似ていることは非なることの証にすぎない”(蓮実重彦だっけか)のだ。
コスプレをするターゲットに漸近線を描いてどこまでも無限に近づいていくことはできる。だが、絶対的に、そのものになることはできないのだ。不可能なのだ。あたりまえのことだ。忌まわしいほど最後は自分なのだ。
(情報をネット上で探して、豊富な物資のなかから選択するだけで、出来合いの衣装をクリックで入手して、デジタル加工で画像を自在に調整して、テへペロしている今どきの〈コスプレイヤーもどき〉には分かるまい…)
※※※
さっき丁寧なお手紙をもらった。私が誰より愛したロリータが、ロリータとしての人生に終止符を打つという。
過去を脱衣して、新しく生まれ変わる人生に、心よりエールを…。
…「たまに着るロリィタ服なんてただのコスプレ、あってはならないこと」と彼女は云う。
ファッションとしてでなく生き方としてロリータ服を纏って徹頭徹尾それで生きて戦ってきたコがそれを脱ぐ時、
あるいは、子どもと大人のはざかいに自覚的に気づいて傷ついているコがそれでも新しい大人としての自分を築きあげる時。
(そういう季節なのか、何人か重なる。)
強くて綺麗なコというのは、切先も潔いほど尖っているから傷つくのだ。だが、その哀しみの深さは、そのコの奥行きの深さ。
私にはそういえば脱衣というものがない。
だって最初から「コスプレ」なのだもの。
弱さなのかだらしなさなのか狡さなのか。
そしてその代わりとしてのタトゥは宿命的に脱衣できないという、いわばアンビバレンツな「コスプレ」。
そこまでも、せねばならない、自分かな。(俳句か、笑)
ありとあらゆる他者を見つめて、それを繋いで、言葉として縫製して見せてる、今のライブも、ひとつのコスプレ。
ルールありきのプレイ。スタイルありきのフリーダム。
年々ヘヴィになるのは、「自分らしさ」なんていう贅肉のせい。
個性なんてものをとかく欲しがる若者がいるけれど、私にとって個性ほど邪魔なものはなくて。
邪魔だし、重いし、誤審するし、できるだけ排除したいけど、どうしても残存してしまうもの。
自分を殺し、やがて他者に殺されるまで、コスプレイヤーは二度生きる。
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