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割と書くことがない

風邪の熱がおさまってくると今度は喉に不安要素が移動します。
わりといつものパターンです。
ああ、明日も明々後日も月曜もライブなんだけれども…。こわいです。
やんなっちゃうほど体が弱いのであります。でもだからこそメンタルを強く保とうと思えるのも事実。
気が強い人にはなりたくありません。気を強くもてる人で居ようと思います。
精神には縁(ふち)がないけれど、肉体は疲弊するしうずくまるし、思うようにならない。
でもそれは肉体の咎ではなく豊穣のしるしなのだと教えてくれたのは、サイ・トゥオンブリの絵画(私の修士論文のテーマ)でした。
話すことを生業にしているくせに、先天的に発話障害を抱えていて、さらにライブ前に風邪ひいて喉痛めるとかそりゃないぜ。
自分でもそう思いますが、でもこうしてたまに喉を痛めるたびに話せる事の貴重さも思い知るのです。
胃が痛いときはじめてその形を意識するように、歯が痛むときはじめてその働きに気づくように、足をねん挫してはじめて歩行のメカニズムを考えるように。
あたりまえすぎて見えないことが、少しずれると見えてくる感じ。
病いは身体の表現であり表象なんでしょう。たまには不健康でいいのではないでしょうか。
「あれだけライブでよくしゃべれますね」とは言われますが、そんなに喋る事なんて本当はないんです。
作っているんです。
ツイッターはそこそこ意識的につぶやいてはいるけれど、FBはおろそかです。
私の携帯はひどくアンティークだし、私が機械音痴なので、写真をアップしたりできないので気後れします。
いや、そんな記録に残すべき日々を送っていないのであります。
読んだ本、着た服、食べたもの、見た映画、訪れた場所、会った人…それらはすべて私という人間を構成する成分。
それを公に晒すことに未だに激しい羞恥心があります。
結果的に自分が書くものは全部自分なんだけれど、ひねってひねって、加工して、他者の前に出すだけの体裁を整えて、もう自分という原形が分からないようなレベルにして出す(みたいなことを昔村上春樹が言ってたような気がする)のでない限り。
で、そのようなレベルに加工するのは、わりとエネルギーが要るのです。
(コスプレというのも私のなかではそういう加工でした。エネルギーが要ります。笑)
いちおう、文字や言葉を扱って生きています。
文字はすでにある何かを記録し、保存するためにあるのではありません。
それは新しい何かを造り出してしまう、とても創造的な力なのです。
創造の創は創傷の創。
傷つけても自分のなかの「倉」に何もないことが分かっていたり、そもそもそうそう傷つける場所もない、というのもあります。
何かをEx-pressしようと思えば、その前にIm-pressありきです。
すべての優れた表現者はすべからく、それ以前に優れた受容者に他なりません。
このIm-pressの効率がどうも私は悪いようです(笑)。致命的です…どうしましょう。
最近読んだ本のあとがきに「一生かかっても使いきれないお金と、一枚の絵の前で数時間うっとりと佇んでいられる能力(?)」のどちらかを選ぶなら後者だ、という記述があって、陳腐な言い方をするなら感銘を受けました。私も同感です。そこに一切の迷いはなく。
そしてそのふたつがはかりにかけられるような価値だとしたら、後者の能力は私はすでに持っています。
ただのグズだと思っていました、ずっと。でもそれを「能力」と思えたとき、何か変わるのでしょうか。
マゾヒストのはしくれとして、敏感な痛覚と、傷つくことのできる能力を失わないこと。
オナニストのはしくれとして、自分で自分がどうすれば気持ちイイのか探し続けること。
ナルシストのはしくれとして、自分に愛されるに値する自分をつねに鋳造していくこと。

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