観た作品、読んだ本、食べた料理、着てる物、行った店…
それらを一般公開することの羞恥心でなかなかオープンなブログは書けない。
私という生身の個はもちろんそういった私の日常が培うものであり、それらが私をつくっているともいえる。
私の組成の成分をあまり知られたくない…(笑)。
村上春樹ほどプロではないので、原形が分からなくなるくらい自分をねじってこねくりまわして作品にできない。
でちゃう、のである。少しは。
西川貴教は好きだし、黒服は私の戦闘服だし、地下室の棺で眠っているのも、身体加工しているのも、書物に埋もれているのも事実だし、知られて困る事でもないけど、知られなくて困る事でもない。
ここを一応つくったものの、「日記」カテゴリも設定したものの、書くことがないのである。
書いても構わないことはたくさんある。でも、書くべきこと、書かねばならぬこと、書いた方が自分以外の他者にとって良いと思われること以外については黙っているほうが誠実だと思う。これだけ色んな情報があふれて誰もがさまざまにメディアと化す時代だからこそ、だ。
何かを書く(この前の「日本語の特色」のライブのときに少し話したが、それは、欠く、掛く、賭く、架く、掻く…ということである)ためには、その元手というか、支持体を絶えず生産し続ける必要がある。何かを話す(離す、放す)ためでも同じだ。掻き削ったり引っ掛けたり離したり放ったりするものは宿命的に傷つき消耗する(願わくはそれが、無傷の綺麗さをはるかに凌ぐ美しい傷でありますように、といつも考えて話して書いている。)。無尽蔵ではない。その「支持体」を黙って生産し続けることが必要だ。その時間が最近どんどん減ってきたような気がする。本を読んで考える時間、何かを観て咀嚼して消化する時間、勉強をして理解して把握する時間、対象の取りたい形を見極めて掬う時間…それらにどうしてもかかる必要不可欠な時間と労力というのは、どんなに時代が省エネ加速化してもどうにもならない。私はひどく不器用なのでそこの燃費が悪い。ただ、そうした支持体に裏打ちされていない言葉は薄っぺらい。それを仕事にしているなら、私はそれで他者だけでなく自分までも貶めることになる。
書くべきことはしかるべき場所(なんかそろそろまた原稿仕事が欲しいです。毎日新聞の連載コラムが毎週あった頃の緊張感がそろそろ懐かしいです。笑)で書くし、ちょっとさえずるだけならツイッターで十分だし、話すべきことはライブで話すか、直接その人に会った時に話す。
そもそも不特定多数に向けてネット上で発信する必要のあることが、私のような一般人にそんなにあるとは思えない。
ネットという無制限の空間でオフィシャルだのオープンにするために、あたりさわりのないことしかなぞれないなら、それも言葉の持つ力の蹂躙である。生身の範囲にしか私は責任もてない。
言葉は吐く人に依存する。あのひとがこれを言うなら素晴らしいけど、お前が言うな!っていうことは多々ある。差出人不明の言葉や宛先を持たない言葉が惨劇を生むこともある。
スクエア54の会報なんかは、自分で封筒の宛先を手書きしているし、手間はかかるけどとても気に入ってる媒体。数十冊しかないものを自分の手で作って届けること。
…ということで、気と腰が引けて、事務連絡以外にここを活用できておらず、気にはなっているのである。
更新されないサイトは墓場と同じだ。生きてない。作品であれ人であれ、生命力のないものを私は愛せない。
スクエア54のことをもっと知っていただくためにも、ぶんぶん発信すべきだとも思う。
けれどもやっぱりどうしても恥ずかしくて無理なのだ。
それに、多くに知ってもらう必要もない、とたぶんどこかで思っているところが敗因なんだろうと分かってもいる。
そんなこんなで、このブログの「キャラ設定」にもう少し時間かかります!(笑) ごめんなさい。