メニュー 閉じる

野うさぎの跳躍

飛べない野うさぎはどうなるのか。
『野ウサギの走り』を昔読んで以来、バリー・フラナガンの野うさぎを見かけるたび、いつもこんな風でいようと思う。
野うさぎは決してかわいくない。かつて異国で遭遇したが凶暴の一言に尽きる。跳躍力は蹴鞠ならぬ毛毬のよう、しかも走らせたら時速80km。愛らしさのイメージなど愉快なまでに瓦解した。誰が♪さびしすぎて死んでしまうって? どこが♪ひとりきりで震えてるって? 年中発情してて神出鬼没、上唇裂で左右の耳は別々に自在に動いて情報を集め、嘔吐も逆流もせず、自身の排出物を再利用できる。謎だらけの生命体…。
昨日、身体の一部が肉離れを起こした。ヴィヴィッドな激痛だ。嫌いな種の痛みではないが野生動物なら致命的だなあ、と病院で電気治療中に殺風景な天井を見上げて思う。
トラブルにアクシデント、ついていない突発時がここのところ重なってやってきて、不幸なのである。
だがしかし「現在どんなに不幸でも、過去がどんなに不幸であっても、気持ちまで不幸になる必要はない」というようなことをダライ・ラマは言われた。それに、至福の状態からよりも不幸な状態のほうから人は多くを学ぶし、深くを知る。経験上それは確かだ。
ならば、不幸がいちばん幸福に近いのかもしれない…。
なので、よしとする。人間は納得できる不幸には強いし、耐えられるものだ。
ライブは待ってくれないのでとにかくリハをせねば。こんな極貧のその日暮らしを思えば15年もしているのだ。
それでも、会社に帰属して賞与も給与も出て保険もあったOL時代と比べてどう考えても今が悪いとは思えない。
経済的には数日何も食べないほどの飢餓状況に毎月陥る。でもどうしてみても現在のほうが面白い、のである。
私のライブに金メダルなどの名誉はない、そのかわり無気力試合もないし、引き分け狙いもない。シンプルだ。
思考にも筋力があってトレーニングしないと衰えるし、書物だの知という滋養を絶えず与えてやらないと弱る。
自分の頭の悪さと不器用さを知り尽くしているからこそ必死だ。なにか必死になれることがあれば人生面白い。
専門はなんですか、と言われるといちばん困るのだが、私の領分(と自分で思っている)は跳躍力と自在な交通力であって、そのためには専門など邪魔なのである。出身大学での所属は哲学だったかもしれないが、正直まったく関係ない。
古今東西、思想絵画彫刻舞踊音楽言語建築デザイン…、要するに人と何かがクロスして「文」を描く、人文すべてが射程であり、その間を自在に繋いで貫いて編集すること。
そのために跳ねて飛んで走るための強靭なバネが必要なのだ。鮮やかに身を翻す野うさぎのタフさ。

関連記事